’20東京五輪で見えてきた演出プロデューサー達の“日本とは何か”を知らない無能さ具合
2021年8月8日に夏季東京五輪がコロナ渦の中なんとか閉幕した。最初はどうなるか正直ヒヤヒヤしたものだが、この状況の中で最後までオリンピックをしたことに、筆者としてはそれがある程度評価に値する働きぶりだと思った。
さすが日本だと。他の国ではこの中でここまでは出来なかったのではないかと思うほどだった。
しかしそれ以外はどうなのかと思わざるを得なかった。それは一体どういうことか。
開会式と閉会式のパフォーマンス模様である。正直絶句したと思わなかっただろうか。
開会式では市川海老蔵とジャズピアニストの融合、王貞治と長嶋茂雄による聖火リレーの受け渡しと豪華ラインナップで行った。個々の人々はそれぞれの持ち味を出して頑張ったと思う。
しかし、しかし……だ。演出がどうにもならなかった。開会式と閉会式の演出が地味過ぎたのだ。どうにもこうにも失望してならなかった。
今回の東京五輪のキーワードは「多様性と調和」だったという。これはこれで素晴らしいテーマである。テーマそれ自体は非常に日本らしいと言える。
……が、あの演出ではあまり日本らしさは出てこなかったのが大勢の意見ではないだろうか。確かに個々の内容には日本らしさはあった。歌舞伎、ゲーム主題歌、古関裕而の「オリンピック・マーチ」などなどだ。
しかし総合演出としての日本のエンターテイメント性にはかなりの不足感があったと言わざるを得ない。
では日本における「多様性と調和」とは何か、筆者なりの意見を述べようと思う。
まず日本における多様性とは宗教とか、民族、思想などがある一つの空間に存在することだと思う。
しかし今回の演出ではそれが見られなかった。精々日本の端々にある伝統文化の多様性ぐらいのものであり、世界の多様性が見て取れなかった。
あれではただの日本文化の紹介である。他の国々を交ぜて演出しないといかなることかと思う。
そして調和とはその多様性を排斥せずに認めることだと思う。しかしただでさえ世界の多様性がなかった上に、演出全体の統一性がまったく見られなかった。
バラバラも甚だしいことこの上なかった。
だからあのテーマで日本としての演出なら大体こんな感じでないだろうか。
もっと近代的な機器を駆使しながら、世界の様々な国の文化や日本の文化を織り交ぜながら、一体感のある日本らしいエンターテイメントを表現出来たのではないか、そう思えてならない。
オリンピックとは世界の祭典である。それなのに開会式と閉会式の演出のあの失態はなんなんだろうか、と日本人として悲しくなる。まさにMIKIKOさんの言う、
「日本は終わってしまう……」
そのものである。
日本という国はどういう国か、もう一度彼らには見つめ直してほしいものだ。