佐古昭博の徒然’sブログ

“日本人とは何か”を探究するブログです

ユダヤ人はなぜ民族的に優れているのか~それは日本人に失われたものだった~


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一般的にユダヤ人は頭脳的に他の民族より優れていると言われている。僕も確かにそう思っている。

 

アインシュタインフォン・ノイマンオッペンハイマー……ユダヤ系科学者の名をあげればきりが無い。

 

ではなぜここまで優れているのか。確かに遺伝的なものもあるだろう。しかし僕は別の着眼点で考察をしていく。

 

答えを先に言うと、それはユダヤ人の自己認識能力の高さではないだろうか。順を追って説明する。

 

まずユダヤ民族の環境状態と言えば、2000年ほど前から自らの国を去り、散り散りに離散したことだ。

 

そしてユダヤ教徒として宗教的結束を保ちつつ、その期間に各地へと定住していった。

 

つまりその間ずっとユダヤ人は国を持たずして、民族同士の精神的結束を持っているのだ。

 

彼らは心細い精神的繋がりだけで、自らの国を持っていないなんて一見すると可哀想な民族だと思ってしまう。しかし僕はその精神的繋がりにユダヤ人の賢さのヒントがあるのではないかと思う。

 

学問いや、それだけでなく、そもそも道具を使いこなすには自分の向き不向きを知らないといけない。そうしないと人は道具を上手く使えないからだ。そして自己分析をして得意なことを探し、見つけたらそれを活かしていく。

 

自己分析、つまり自己を知るための一つとして民族同士の精神的結束つまり民族意識は重要になってくる。実は民族ごとに固有な向き不向きがあるからだ。すべての国で王室が成り立つだろうか。民主主義、自由主義が成り立つだろうか。

 

つまり彼らは民族同士の精神的結束によって己を知り、民族として何が向いているか分かっているのではないかと思う。

 

それが分かっていれば、後は自分の中での向き不向きを知るだけで済む。彼ら自身は自分の出来る範囲を弁えているのだろう。

 

民族意識は道具を使いこなす上で重要な要素なのだ。

 

 

日本人は自らの国土を持っていても、歴史、殊に民族意識に対しては自虐的で否定的だ。すぐ右翼などとほざく。昔は漢学などして日本人としての思想を高めていたが、戦争に負けて以来まったく腑抜けになってしまった。

 

一見科学力は高いではないかと思うかもしれないが、僕はまだまだ科学のことを理解出来ていないと思う。

出来ていればこれほど自然破壊はしないはずだ。まだ科学を上手く使いこなせていない証拠だ。

だから日本人はもう少し自らの民族を尊重し、民族意識を持つべきだ。

もし自分の土地で自然災害が起きてしまったら、どう生き残るべきか


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ここのところ大雨が続き、日本全国で土砂崩れや洪水などの自然災害が起きている。

 

「天災は忘れた頃にやってくる」と寺田寅彦が言ったように日頃気にしていない時に災害は来るものだ。

 

日本は災害大国だ。どこに住んでいても、災害からは逃れられない。

 

昔は村々から移動するということが少なかったから、危険な場所が分かれば、それを言い伝えなどで子々孫々に伝えていたものだ。

 

しかし戦後以降庶民の引っ越し率が増え、仕事の関係とかで見知らぬ土地に移住するようになった。

 

まだ戦後すぐ辺りだと土地土地の旧家がいたので、町内会などで教えてくれる機会があったかもしれないが、今や近所の付き合いも減り、旧家も減っているから土地を言い伝える人がいなくなっている。

 

つまり土地の仕組みを知るものが徐々にいなくなっているのだ。

 

本当は土地のことをインターネットや図書館などで調べるのが得策であるが、よほどでないと調べる気にはならないだろう。

人間その時にならないと出来ないものだ。

 

だからもし住んでいる土地で災害に巻きこまれてしまったらどうするか。

 

まずは近くにある高い建築物を探すことだ。それなら土砂崩れや洪水からは逃げられる。たとえ液状化現象が起きても、高い建造物は地盤をしっかり作っているから、よほどでなければ倒壊の危険は少ない。

 

しかしもし近くに高い建物がなかったらどうするか。とりあえず三階建ての建物を探して避難しよう。そうすれば生存率は上がる。

 

それともう一つは逃げる時も避難した後も見知らぬ相手でも助け合うこころが大切だ。

 

東日本大震災で見せた日本人の行動を思い出してほしい。

知らない者同士でみんな互いをいたわり、助け合いながら、行動したものだ。

 

もし自分の身だけを守り、相手を粗雑にしたら逆の立場になったとき、助かる率はかなり下がるだろう。

 

人は一人では生き残れない。避難したら互いの力が必要になる。一人で助かろうとせず、みんなでココロをひとつにしよう。

 

 

日本には自然から人間を守る人工物がある。それをしっかりと理解し、災害から身を守ろう。

しかし身を守るだけでは生き残れない。長期戦になっても生き残るためには日本人的対応が大切になってくる。自然豊かで災害が多い環境で出来た方法論だ。この国で生き残るために使うのは当然かもしれない。

社会人になっても好きなスポーツをやる意義

今週のお題「好きなスポーツ」


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少年時代はよく部活に明け暮れたものだ。僕は中学では剣道、高校では弓道をした。

しかしこれが社会人になるとパタッとスポーツをしなくなる。社会人野球、社会人バスケなんてのはあるが、そういうのは会社全体のごく一部に過ぎなくなる。

なぜ会社ではほとんどいわゆる実業団をしなくなるのかというと、やはり会社員がスポーツをする上で会社側に様々な費用がかさむというのが最大の理由であろう。

備品の購入やコーチの資金は会社が負担するものだ。

それにインフレの根幹会社がインフレには直接関係のないスポーツを運営する必要性はどこにもない。

では逆に社会に出るとほぼ必要でなくなるにも関わらず、なぜ学生時代には部活動があるのか。それを少し確認したい。

学習指導要領の部活動の内容によると、「スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等に資するものであり、学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること」を明記されている。

つまり学校で部活動をする必要性として、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上責任感連帯感の涵養等に資するものだからだ。

これは社会に出ても必要なものではないか。

いや確かに学生時代を思い出してみると、名門大学に行くために部活をせず勉強のみの子もちろんいた。しかしそれは少数の印象だった。それよりも勉強出来る学生は大概部活動もよく励んだものだ。

逆に部活動に入っていない子は学力も低いイメージまであった。

それに部活動による友達付き合いも増え、大会の団体戦で連帯感も付いたものだ。

つまり社会人の傍らにスポーツをするのは働く上で非常に大切であるのではないかと思う訳だ。

しかし嫌いなスポーツをしても仕方がない。やはり好きなスポーツをする。そうすればスポーツでのモチベーションは上がり、仕事のモチベーションも上がるだろう。

だから加えて会社側が会社の一環で学校の部活動のような様々なスポーツを出来るようにすると提案して欲しいぐらいに僕は好きなスポーツをする意義があると思うのだ。

 

会社側はもう一度スポーツの意義というものを考えてみても良いのではないかと思う。

甲子園と日本人のココロ


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8月9日から今年の全国高校野球が始まった。高校生の白熱した試合を見て、一度は熱くなったことはあるだろう。

 

ボールが飛んでくる方向を常に予測するバッター、全体を把握し頭脳を張り巡らすキャッチャー、暑い炎天下の中で精密機械のようにボールをコントロールするピッチャー、ボールがたとえ届かないところでもあきらめず手を伸ばす守備、ぎりぎりでも塁へ走り込むランナー……。

 

若き血潮がみなぎって戦うその少年達の勇姿に観客席やテレビで見ている者も熱くなる。そんな甲子園から数多くの名プロ野球選手を生んだ。

 

王貞治、江川、松井、イチロー、松坂、そして大谷。

 

そしてそんな熱い試合をする高校野球で実は日本独自の思想があるのはご存じだろうか。

 

あるアメリカの映像監督によると、日本の高校野球には「統一感」と「素直さ」があったそうだ。特に「統一感」は圧倒的だったという。一体どういうことだろうか。

 

日本の高校野球というのはチーム一丸となって戦う。そんなの当たり前と思われるかもしれない。しかしアメリカは違うらしい。

 

アメリカの高校野球は才能や個性を重視する社会なのだそうだ。「あいつに勝って4番になるぞ」といったいわゆる競争社会である。

 

確かに日本の高校野球の球児にも「あいつに勝って4番になる」という気持ちはあることだろう。しかし日本はどちらかと言えば、個人よりも集団としてチームを良くすることを重点に置くのだ。

 

この精神はまさに「私」を捨てた「公」に尽くすそのものである。

日本社会もその構造を持っている。これは古代日本から続く日本の倫理思想なのだ。つまり昔からの日本人のココロである。

 

 

従って「統一感」という日本社会と同じように集団でチームをより良くしようとする高校野球の思想は日本のココロそのものなのだ。

本論では「素直さ」について割愛したが、この考察はまたの機会にしよう。

’20東京五輪で見えてきた演出プロデューサー達の“日本とは何か”を知らない無能さ具合


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2021年8月8日に夏季東京五輪がコロナ渦の中なんとか閉幕した。最初はどうなるか正直ヒヤヒヤしたものだが、この状況の中で最後までオリンピックをしたことに、筆者としてはそれがある程度評価に値する働きぶりだと思った。

 

さすが日本だと。他の国ではこの中でここまでは出来なかったのではないかと思うほどだった。

 

しかしそれ以外はどうなのかと思わざるを得なかった。それは一体どういうことか。

 

開会式と閉会式のパフォーマンス模様である。正直絶句したと思わなかっただろうか。

 

開会式では市川海老蔵とジャズピアニストの融合、王貞治長嶋茂雄による聖火リレーの受け渡しと豪華ラインナップで行った。個々の人々はそれぞれの持ち味を出して頑張ったと思う。

 

しかし、しかし……だ。演出がどうにもならなかった。開会式と閉会式の演出が地味過ぎたのだ。どうにもこうにも失望してならなかった。

 

今回の東京五輪のキーワードは「多様性と調和」だったという。これはこれで素晴らしいテーマである。テーマそれ自体は非常に日本らしいと言える。

 

……が、あの演出ではあまり日本らしさは出てこなかったのが大勢の意見ではないだろうか。確かに個々の内容には日本らしさはあった。歌舞伎、ゲーム主題歌、古関裕而の「オリンピック・マーチ」などなどだ。

 

しかし総合演出としての日本のエンターテイメント性にはかなりの不足感があったと言わざるを得ない。

 

では日本における「多様性と調和」とは何か、筆者なりの意見を述べようと思う。

 

まず日本における多様性とは宗教とか、民族、思想などがある一つの空間に存在することだと思う。

しかし今回の演出ではそれが見られなかった。精々日本の端々にある伝統文化の多様性ぐらいのものであり、世界の多様性が見て取れなかった。

 

あれではただの日本文化の紹介である。他の国々を交ぜて演出しないといかなることかと思う。

 

そして調和とはその多様性を排斥せずに認めることだと思う。しかしただでさえ世界の多様性がなかった上に、演出全体の統一性がまったく見られなかった。

 

バラバラも甚だしいことこの上なかった。

 

だからあのテーマで日本としての演出なら大体こんな感じでないだろうか。

もっと近代的な機器を駆使しながら、世界の様々な国の文化や日本の文化を織り交ぜながら、一体感のある日本らしいエンターテイメントを表現出来たのではないか、そう思えてならない。

 

 

オリンピックとは世界の祭典である。それなのに開会式と閉会式の演出のあの失態はなんなんだろうか、と日本人として悲しくなる。まさにMIKIKOさんの言う、

「日本は終わってしまう……」

そのものである。

 

日本という国はどういう国か、もう一度彼らには見つめ直してほしいものだ。

これからの自然との向き合い方~西洋思想のみでは駄目な理由~

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昨今の温暖化の影響で、線状降水帯が起き、集中豪雨による土砂災害などの自然災害が多発している。

 

また台風の威力が以前より増して、日本に東北など緯度の高い地域に北上するのも温暖化の影響だろう。

 

これは科学技術の進歩による弊害とみて間違いないと思われる。

 

ではいつからそのようなことがあったのかというと、実は昔から存在した。

産業革命により早く科学技術が発達した英国では19世紀ごろから20世紀の中ごろまで石炭から出る煙やすすによる大気汚染の影響で、霧の都と呼ばれる時代があったのだ。

 

このように科学技術が発達してから、自然破壊による自然災害は今の今まで続いている。

 

やはりこれは科学技術の根底の考え方である西洋思想による人間・自然との切り離し、人間による自然支配が原因だ。

 

確かに人間と自然をしっかりと切り離して、自然を客観視(観察)するような考え方は自然科学を研究する上で重要な考え方だ。

 

しかしこれだけでは科学技術の発達により、自然破壊を免れない。では他に一体どんな考え方があるのだろうか。そこで日本人古来からの考え方を提案する。

 

古来の日本人の考え方では自然を畏怖すると同時に一つの魂を持った生命体という考え方があった。そして自然、特に植物に対して友そのものの認識があったそうだ。

 

要するに“自然と友達”である。

 

普段人は自分の友達に対して大切に仲良くするならいざ知らず、支配するなんて考えないはずだ。

それだと友達ではなく一種の家来だ。

 

そうではなく自然を正しい意味での“友達”のように接する。つまり自然との調和である。今風に言えば共生だろうか。

 

この考え方を自然を客観的に見るのと同時に並列して持つべきではないか、そう思うのである。

 

共生というのは最近の考え方のようで、日本では古来からある考え方なのだ。

 

 

いまや世界の科学技術の発達により、自然災害の規模が大きくなっている。そしてこれからも自然と共生する対策をしなければ、続いていくことだろう。

 

世界のどこの国かでそれに歯止めをかけ始めなければならない。最初から世界が動くとは思えないので、名だたる国がしないといけない。とはいえ、どこの国がするだろうか。米国だろうか、英国だろうか。

 

いや、やはりまずは自然との調和の考えを古くから持っている日本から動き出すべきではないだろうか。そしてその先駆的な対策を世界に示していくべきだろう。

 

小さなことをコツコツとである。

 

いつか自然破壊により自然が人間を滅ぼす日がくるのではないか、そういう心配が筆者はあるのではないかと気にしてならない。

コロナ渦から“日本人”を見つめ直し、日本人なりのコロナ対策をしよう

昨年の1月にコロナが日本へ入ってから早一年七ヶ月が経とうとしている。

 

中国武漢から始まったコロナウイルス、正式名称COVID-19は、世界中に拡がり、未だに感染者数が減らない脅威のウイルスである。 

 

そんな中で世界の国々が自国民の感染者数を減らすために様々な対策が講じられているが、そこで本来の国民性、つまり民族性が出てきていると思われる。

 

代表的な国を例にそれぞれのことを示す。

アメリカ・・・渡航制限、入国禁止による国内包囲網といち早いワクチンの製造。

・イギリス・・・ロックダウンや科学者などの有識者による封じ込めを行ったが、うまくいかず、早期のワクチンを製造したが、変異株が生まれた。

・フランス・・・自宅待機が基本で、外出時はその旨の証明書の作成、EU域外との出入国を原則禁止。

・ドイツ・・・イタリアの患者をドイツの病院に受け入れ。

・インド・・・病院設備の不足や、脅威の感染者数に新たな変異株を作る。

・中国・・・初期は武漢の都市封鎖を行っていたが、度重なる情報統制、習近平武漢訪問など様々な政治的統制を行う。

 

ここで今上げた国の感染者数を順位付けすると以下のようになる。

順位 国     感染者数    死亡率

1.アメリカ合衆国 36,543,338   1,900

2.インド     31,969,954   307

3. フランス    6,305,158    1,715

4.イギリス    6,069,362     1,909

5.ドイツ     3,797,836     1,098

6.日本      1,031,296     121

    ⋮

    ⋮

7.中国      93,826     3

            Wikipediaより

 

このデータがどこまで正しいのかは僕には正直分からない。

 

しかし先ほど述べた国家対策とこのデータから日本人の国民性、つまり日本人らしさを見ていくことにする。

 

・イギリスやインドのように国内変異株は今のところ見かけない。⇒不明

・感染者数、死亡率ともに今回挙げた代表的な国よりかは明らかに少ない。⇒制御が上手くいっている。

・イギリス、フランスのようにロックダウンまではいっていない。⇒感染者数が少なめ。

・しかしイギリスやアメリカのようにワクチンの製造が上手くいっていない。⇒理学に弱い。

・中国のような明らかな情報操作は行っていない。⇒自由主義国家である。

 

ここから日本人とは自由主義を基本としながら、(国民全体の)統率が比較的行き届き、それで世界より感染者数が少なめだが、理学に弱い民族であると言えるのではないかと思う。

まん防の効果然り、ワクチンの遅延然りだ。

 

そしてここから言える日本人なりの対策とはなにか、それを論じていく。

 

前回(近代化による明治維新以降と日本人らしさの喪失 - 佐古昭博の徒然’sブログ)にも少し書いたが、和辻哲郎著『日本倫理思想史(一)』によると、日本人が統率するのは、権力による統制ではなく、公(無私)による清明心の統率である。

公による清明心とはつまり人間の慈愛の尊重であり、そこから共同体の協和と公正になるというのだ。

 

以上をまとめていくと、日本人は国民全体で協和を意識しながら、距離を取るなどの感染予防をしつつ、ワクチン接種を徐々に打つべきだと思う。